2012年7月14日土曜日

さよならフランス

パリを離れ、ケンブリッジに住み始めて半年が過ぎた。

半年の暮らしを経ても、やっぱりケンブリッジの生活は私たち家族に合っているようで、
夫はもうフランスには帰りたくないという気持ち増々強くしている。
私もイギリスの生活のほうが好きだけれど、
最近はフランスが懐かしいと思うこともしばしば。
ちょっと離れてしまうとやっぱりあれは良かったなと思い出されることもあって、
このブログを閉じる前に、フランスの良かったところを書いておこうと思う。
私には多くの試練を与えてくれたパリ郊外の生活だったけど、
今になってはこういうものが懐かしい。

●パン屋とケーキ屋が懐かしい。
私の住んでいたパリ郊外の街は、観光ガイドに全くひっかかることもない薄汚い街だったけれど、
それでも外を5分も歩けば必ずパン屋とケーキ屋が一緒になった
Boulangerie Patisserieという看板を出したお店に突き当たり、
ほくほくの焼きたてバゲットを1ユーロ以下で買えた。
散歩の途中に色とりどりのケーキが並んだショーウィンドーを覗くのが楽しみだった。
ちょっとした自分のご褒美に、タルト・フレーズやパリ・ブレストを買ったり。
一つだけケーキを買うと、紙箱ではなく包装紙が三角形になるように包んでくれて、
最初はどこを持って持ち帰ればいいのかちょっと戸惑ったこともあったなぁ。
今住んでいるケンブリッジの家の周辺には、
バゲットは近所のスーパーで買えるとしてもケーキ屋は一軒もない。
ケーキを買おうと思ったら、
街の中心街にあるフランス風のケーキ屋Patisserie Valerie行かなくてはならず、
フランス風を唄っておきながらも味はいまいちだ。

●フランスのバゲットサンドイッチが懐かしい。
パン屋に売っているバゲッドサンドイッチの種類は、
ハム、チーズ、バター、チキン、ツナ、生野菜を組み合わせた5種類ぐらいしかなくて、
日本で売っているお弁当感覚で今日は何にしようかなという程のチョイスはなく、
一ヶ月以上もフランスに住むようになると
あのサンドイッチは特にありがたい存在でもなくなっていた。
でも、イギリスに住み始めたら、あのバゲットサンドイッチの味が無性に恋しくなった。
たまにお昼を作るのが面倒くさいと思ったとき、
よくバゲットにハムとバターを挟んだだけのサンドイッチを1本買って、
離乳食が終わったばかりの息子と二人で分け合った。
大きなパンをガブガブとかじる小さな息子の表情が懐かしい。

あるとき、イギリスでもお昼を簡単に済ませようと
スーパーで売っているサンドイッチを買って息子と分けようと思ったら、
息子はそれを吐き出したのである!
ただハムとチーズだけのシンプルなものを買ったと思ったのになぜ?
と不思議だったのだけど、私が口にしてみて納得した。
ハムとチーズの質がフランスに比べて劣るのに加えて、
得体の知れないマヨネーズともドレッシングとも言いがたい調味料で味付けされている。ハムとチーズの味がその調味料でかき消されているというのが私も衝撃的だった。
それ以来、何かお昼を軽く簡単にというときは、まずいのは百も承知だけれど
スーパーのサンドイッチ売り場の隣に並んでいるすしセットを買うことにしている。
とりあえずご飯なので、これなら息子も一緒に食べてくれるのだ。
すしはフランスでもかなり日常的な軽食になっていて、
スーパーですしセットを売っているのもよく見かけた。
でも、まさか自分が日本人である限り、あのヨーロッパで販売されるすしセットを買って食するとは夢にも思わなかった。
でも今の私には「イギリスのサンドイッチ<イギリスのすし」なのである。

●フランスのマルシェ(市場)が懐かしい。
フランスにいるときには週に2回開かれる市場でほとんど野菜を買っていたのだけど、
イギリスにはそうしたものがないので、大型スーパーのテスコで買うことがほとんどだ。
ケンブリッジにもマーケットがあるのだけどいまいち観光客向け、一部の自然食品志向の人向けという感じで、フランスのように人々の生活に密着した感じの市場ではない。
大型スーパー・テスコの野菜は、
日本の野菜のようにどれもキレイに包装されて陳列されていることが多く、
なんとなく安心して買い物はできるのだけど…。
一つ不満なことが、イギリスの野菜売り場には「季節感」や「旬」といった雰囲気が
いまいち薄いのだ。
フランスのマルシェでは、日本ほど季節ものの野菜は多くないような気がするけど、
アスパラガスが並ぶと春、スイカとメロンの合わせ売りがはじまると夏、ぶどうが秋で、アンディーブ(チコリ)が冬、という季節感があったのだ。
また、マルシェで働くおじさんやおばさんが発する客寄せの声や、
後ろに行列ができているのに年配女性客とじっくり話し込んでしまう店員さんとか、
フランスの生き生きした市場の雰囲気が懐かしい。

●フランスの薬局が懐かしい。
フランスは法律で都市においては何百メートル以内に必ず一軒や薬局を置くことが決まっているらしく、私の住んでいる街にも徒歩10分圏内薬局が三軒あった。
薬局の何が懐かしいのかと言えば、セールで出される特売品だ。
たまに覗くと日本でも人気のWELEDAの製品が半額になっていたりとか、
高級そうな保湿クリームも半額だったりとか。
それはセールの時期によくあるというわけでもなく
そのお店の在庫の関係でセール品を出しているようで、
予期せぬ時にうれしい掘り出しものがあった。
セールをやっていなくても、WELEDA製品は日本に比べるとかなり安かったので、
よくカレンデュラの香りがするベビーオイルで
お風呂上がりの息子にベビーマッサージをしてあげていた。
イギリスに来てからは薬局はあるけれど、
そこらじゅうどこにでもあるというわけでもないし、
WELEDA製品もあまり見かけないので、
カレンデュラの香りに包まれながら
お風呂上がりの息子にマッサージという至福の時間もなくなった。
当時2歳だった息子は、お風呂の時間になってもぐずったり、
やっと入れても今度はお風呂から出たがらなかったり、
と面倒な思いをしながらお風呂に入れていたけれど、
お風呂上がりのマッサージの時間は案外楽しい想い出になっている。
最初は私がやってあげていたのだけど、
途中から息子は自分で手にオイルを付けて、
自分の小さな肩やお腹をナデナデしたりしていた。かわいかったな〜。

●TVMが懐かしい。
TVM(Trans Val de Marne)は、パリ郊外Saint Maur(RER A線)からCroix de Berny (RER B線)をつなぐバス路線である。
日常で使っていると別になんてことないどこにでもあるバス路線なのだが、
ケンブリッジに来てバス運賃が高くしかも遅れるという不便さを経験してから、
安くてしかも土日もかなり頻繁に便があるTVMが非常に懐かしく思えた。
TVMがスゴイのは、交通量の多いパリ郊外の大動脈路線でありながら、
その渋滞にはほとんど巻き込まれることがないという道路設計にある。
TVMはバス専用道路を走り、一般車両は入れない。
要はトラムと同じようなシステムなのだけど、専用道路にはレールがないので、
レールを造るコストはかからず、非常時には緊急車両も走れるようになっているのも便利だと思う。
とは言っても夕方には人で混雑することもあって
大型商業施設のBelle EpineやIkeaの近くのバス停から乗ろうとすると、
ベビーカーではもう乗り込めないというときもあった。
それでも平日は10分おきぐらいにバスが来るので、結構便利だったのだ。

●本屋の漫画コーナーが懐かしい。
なぜなら、そこはまるで日本だったから。
それを立ち読みするフランスの若者の姿は、日本で馴染んだ本屋の風景とほとんど変わらない…。
もちろん全部フランス語訳された日本の漫画ばかりで、
私は特に何かを買うわけではないのだがなぜかちょっとそこに足を運ぶだけで安心した。
自分が日本から切り離されている訳ではないのだ、と地球のつながりを感じることができた。
それにしても、日本の漫画の翻訳がフランスでこれほどまでに浸透しているとは住んでみるまで知らなかった。
単行本になった作品に関しては、日本で発売されてからほぼ半年以内にはフランス語版も販売されているという感じ。
私がフランスにいたころは、『バクマン。』の第一巻が本屋さんに平積みになっているのを見かけた。
また、フランスは公共の図書館でも日本の漫画がおいてあって、非常にありがたかった。
フランス語の勉強にもなったし、日本だったらわざわざ自分から選んで読まないだろうな、と思えるような作品も図書館で偶然手に入り、
意外なおもしろさを発見することもあった。
ちなみに私が図書館で借りて読んだ漫画は、
池田理代子『ベルばら』、間瀬元朗『イキガミ』、谷口ジロー『孤独のグルメ』、村上もとか『JIN 』、岩岡ひさえ『土星マンション』、おかざき真里『12ヶ月』、こうの史代『夕凪の街 桜の国』。
もちろん『ドラゴンボール』『ドラえもん』『らんま1/2』『One Piece』などのおなじみの漫画も図書館の棚にちゃんと収まっていた。
日本の公立図書館がいわゆる「子供たちのためになる」漫画だけを選んで、手塚治虫作品や『はだしのゲン』だけをかろうじて貸し出しているのとはわけが違っていた。
ケンブリッジの本屋Waterstoneでも日本の漫画用の棚はあるけれど、
フランスのように若者がその周りで立ち読みしているという風景にはまだ出会ったことがない。(やっぱりみなさんお勉強してるのかなー?)

こうやって懐かしくなるものを思い出すと、やっぱりフランス生活の経験はそれなりに楽しかったんだなぁと実感する。
そして、すべてが日常となっているとそのありがたみを感じないけれど、離れてみると見えてくる大切なものがたくさんある、ということに改めて気がつかされる。

***
『共和国、とりあえず異常なし』ここで終了します。

イギリスに来てからの出来事は、
『21世紀の大英帝国』
http://daieiteikoku21.blogspot.co.uk/
に書くことにしました。こちらもどうぞよろしくお願いします。

2012年4月15日日曜日

心にドラゴンを、街には川を。

徐々に、フランスでの生活が思い出になりつつある。
ついこの間までは、生々しい過去の体験だったけど、それが思い出として遥かに想いを馳せる存在になっている。

私がフランスにいる2年の間に、一番精神的なショックを与えた出来事は、パリであったスリでもなく、書類を紛失されたことでもなく、やっぱり東日本大震災のことだった。幸いにして自分の家族・友人はみんな無事だったけれど、3月11日から7月上旬に両親がフランスに来てくれるまでは、なんともこらえきれない不安からあまりよく眠れない日々が続いた。また、震災から一年経ったものの、未だに震災は過去の出来事ではなくまだ闘っているという被災者の方もいて、一刻も早く復興が進むことを祈るばかりだ。

震災のニュースが日本のメディアでもあまり騒がれなくなった去年の11月頃に私たちのイギリス移住が決まり、私のストレスはピークに達した。ただでさえ11月12月のパリはどんよりと曇った寒い日が多くて気分が沈みがちになるのに、息子が風邪を引いたのを皮切りに私、夫の順で風邪をこじらせていき、解熱剤を片手に引っ越し、ビザの準備など諸々のことを片付けなくてはならなかったのは精神的にキツく、全てを投げ出してしまいたい思いだった。

苦行のような日々の中、私はなぜかブータン国王夫妻来日のニュースに毎日ウキウキしていた。単純な私は、ネット上のニュースと写真だけで国王夫妻の大ファンになり、国王が福島の小学校を訪れ子供たちに「ドラゴンって見たことある?私はありますよ。人の心にはそれぞれドラゴンが住んでいて、そのドラゴンは経験を食べて大きくなっていくんですよ。」とブータンに伝わるドラゴンの伝説を披露していたとき、私は目をハートにしてNHKの動画ニュースを見入っていた。

そんなある日の夕方、セーヌ川沿いをバスで移動したときだった。すでに暗くなり始めたサン・ミシェル地区からルーブル地区にかけての風景が息をのむほど美しくて、一瞬全ての日常の疲労感から解放された。背が高いマロニエの木の上のほうにはまだ黄色くなった葉が残っていて、それが薄紫色に暗くなった空の色に映えていた。パリ郊外の生活はストレス続きだったためか、こういう美しい風景がすぐそこにあったということにもほとんど気がつかなかったのだ。

今、パリ郊外での生活を思い出そうとすると、その冬の夕暮れ時のセーヌ川沿いのイメージが浮かんでくる。そのイメージは、すぐさま私が愛用するタロットカード、タロー・デ・パリのエイト・オブ・ファイアー(8 of Fire)の絵柄を思い起こさせた。このカードにあるドラゴンは、右下の背景に描かれた建物(シテ島にあるコンシエルジュ)の位置から考えると正に私が心を奪われたセーヌ川沿い上空に現れているし、またこのカードは「前進」という意味が込められている!


心の中のドラゴンは、いつでも見えるという訳ではないと思う。日常の生活に追われ、毎日クタクタになって突っ走っていると見えない。ちょっとそのスピードを緩めて、一人でほっとひと息ついた時に、ふと現れるのだ。

タロー・デ・パリの制作者であるフィリップ・トーマス氏は、パリには延々と流れる歴史の中で、人類に共通する集合的無意識がパリに集まっているのではないだろうか、と考えているようだ。もしそれが本当なら、パリがいかに醜悪な面をさらそうとも、パリはいつでも世界中の人々を魅了し、「またパリに行きたい」というマゾヒストがいるのも納得がいく。

セーヌ川沿いの風景は、明らかにパワースポットだと思う。昔ラジオのJ-Waveでバイオリニストの葉加瀬太郎さんが、パリのカフェで働く日本人のギャルソンにインタビューした番組を聞いたことがあるのだが、そこでその彼も「仕事でクタクタに疲れて帰宅しようと
深夜過ぎにふとセーヌ川沿いを歩くと、その美しさに圧倒される。その風景を見るとまた明日がんばろうという気になれる」と話していた。また、パリで知り合った私の友人も同じことを言っていた。

「川」がある風景は、いつも人の心を捉える。今私の住むケンブリッジにはケム川というのどかな川があって、いつもカヌーやボートがゆったりと行き交う。「川」は「龍」の化身でもあり、その「龍」を大切に育ててきた街は、何千年もの間繁栄してきた。津波で人間に牙を向けた多くの河川も、今はのどかな流れを取り戻していることだろう。そして、その街を去った人々の魂をその流れに乗せて、また街に帰ってきているのかもしれない。

今更ながら、今年の干支は『辰』。ちょうどイギリスで新生活を始めるにあたったこの年に、何か辛いことや苦しいことがあったら、このドラゴンが舞うセーヌ川沿いのイメージを心に浮かべようと思う。

イギリスに来て驚いたことは、毎日いろんな場所で子供向けのプレイグループ(親子教室)が開かれていることだ。フランスではあまり見かけなかったことなので、私は暇さえあれば息子とプレイグループに参加している。そこで毎回歌う童謡がある。短い歌だけれど、なかなか意味が深くて好きだ。

Row, row, row your boat, 
Gently down your stream.
Merrily, merrily, merrily, merrily,
Life is but a dream.

ボートを漕ごうよ、
ゆっくりと流れに乗って。
陽気に楽しく、
人生はただの夢。

2012年3月10日土曜日

私の感動を返してくれ。

藤原正彦さんの作品を久しぶりに読んだついでに、藤原先生がNHK教育番組『人間大学』で紹介していた19世紀フランスの数学者エヴァリスト・ガロワについてインターネットで検索していたら、なんとYoutubeにその映像がアップされていることがわかった!

当時、『人間大学』講座のテキストで20歳で夭折した天才数学者ガロワの人生について読んだとき、私は感動の涙に震えた。数学的な天才ぶりをすでに15歳のときに示していたにも関わらず、ガロワの人生は辛酸を舐め尽くした。2度の受験失敗、父の自殺。しかも、彼の論文は2度に渡って紛失される。私も稚拙ながらも論文と言われるものを書いた経験があるので、自分の学者生命をかけた論文が2回も紛失されてしまうなんて、考えただけでも身の毛がよだった。市民革命の火が燃え盛る社会状況が不安定なパリを駆け抜けた若き天才は、恋敵との決闘により20歳で命を落とした。そしてガロワの功績は死後14年後に発見され、その後200年経った今でも数学と物理学に重要な役割を果たしている…。炎が一瞬で燃え盛って消えてしまうような、こんな人生があっていいのだろうか、と私は言葉を失い、若い数学者の不遇な人生に思いを馳せ、まさに涙枯れるまで泣きはらしたのであった。

私はなぜかこのときのテキストは購入して読んだのだけど、番組自体は見たことがなかったので、またあの時の感動を味わえるかと思い、さっそくその映像を見てみた。






淡々と続く講義をふんふんと聞き入った。実は彼の人生を知って感動したことは強烈な体験として覚えているのだけど、細かい内容については覚えていないところが多かった。そうだったな、ガロワは受験に失敗したんだった、そう、それで論文も紛失されて…と復習のように心の中で唱えていたとき、私の感動の琴線から「あるある〜」とささやく声が。初めて読んだ時には、え、天才的に数学の才能があるのに受験に失敗?しかも、渾身で書いた論文は2度も紛失された〜!?と不運な人生の展開に私の感情は大きくゆれ動き、涙の大洪水の序章となったところだったのに。

あるのだ。フランスに住んだことがあればわかるのだが、フランスでは重要書類の一つや二つが、提出先の役所やその他公共機関、教育機関、医療機関などで紛失されることがよくあるのだ。私の夫はフランスの大学で非常勤講師をしたことがあるのだけれど、提出書類が足りないとかの理由で、その給料を受け取るのに約1年かかった。また私は医療費の還付をもらおうと国民健康保険(Securite Sociale)の窓口に指定された書類を送ったところ、同封したはずの処方箋がないのでまた送付せよとのお達しが来て、きちんとお金を返してもらうまで半年かかった。この他にも書留で送ったはずの郵便物が紛失したりと、たった2年間のフランス滞在で、書類関係のトラブルは数件ほど経験した。また、私たちの友人や知り合いでも、語学学校の登録に必要な書類を出したけどその後学校の事務担当から受け取ってないと言われたとか、滞在許可証申請の際に一度提出したにも関わらず、またこの書類をもってこいと言われたとか、書類紛失事件はフランスで後を絶たない。なので、決してあってはならないことだけれど、論文が大学側によって紛失されることも十分起こりうる。書類紛失は、フランスのお家芸、国民的スポーツなのだから。

半ばガロワに憧れてフランスに行ってはみたけれど、フランスに住んだおかげで結局当初の感動は10分の1以下にすり減って私の胸にかえってきた感じだった。Youtubeの映像を見終えた私は、ぽかーんと開いた心の隙間に冷たい風が吹き抜けるのを感じた。

藤原先生は『遥かなるケンブリッジ』というエッセイでイギリスの国民性について触れる際、「たいていどの国でもその国民性というものは200年は変わらないものだ」というようなことを書いておられたけれど、正にそのとおりだな、と物悲しく納得してしまった。

2012年3月2日金曜日

藤原正彦作品との出会い

『国家の品格』でベストセラー作家となった藤原正彦さんの文章と最初に出会ったのは、NHK教育で『人間大学』という教養番組があり、藤原さんが歴史上の数学者の人生について講義をしていたことがきっかけだった。薄っぺらな『人間大学』のテキストを買い、ちょっと読み始めたらついハマってしまい、第2章の20歳で夭折したフランスの天才数学者ガロワの人生について読んだ時、思わず目から涙がこぼれ落ちテキストのページは涙でぐしょぐしょに濡れた。私は昔からフランス関係のお話が好きで『ジャン・バルジャン』や『ジャンヌ・ダルク』などを読んだの影響から子供の頃からフランスに住んでみたいと夢描いていたのだけど、大人になってから「よし、やっぱりフランスに行こう!」と夢を決定的に膨らませてくれたのは、この藤原先生のテキストだったと思う。それぐらい心に響く名文だった。

時は経ち、子供の頃の夢が叶いフランスで子育てをすることになり、ガロワが生まれた街ブーラレーン市からそう遠くない街に住んだことから、藤原先生が書いた文章をよく思い出すことがあった。そしてその後ケンブリッジに移住することになり、まっさきに彼がケンブリッジ留学時代に書いたエッセイ『遥かなるケンブリッジ』を読みたいと思った。日本から送ってもらおうか、と思っているうちに、ふとケンブリッジ市営の図書館に行ったら日本語の本が何冊か置いてあり、その中に藤原先生の『若き数学者のアメリカ』があった。ちょっと的外れだけどと思いながら、借りることにした。そして数日後、今度はケンブリッジの日本人会が開催した餅つき大会で、日本語の本の古本市もあり、そこで無事『遥かなるケンブリッジ』も手にいれることができた。海外で自分の読みたい本をすんなりと手にいれることができるのは、かなりラッキーなことなのでうれしかった。どうやらケンブリッジに来る日本人はみんな彼の作品に興味があるようで、古本市には藤原先生の他の作品もあったのだけど、今思えばそれを全て買わなかったことを後悔している。

アメリカについて書かれた本とイギリスについての本を平衡読みすることになった訳だが(なぜなら、最初に読みたかったのは『ケンブリッジ』の方だったけど、『若き数学者のアメリカ』もちょっと読み出したら止められなくなったから)、私は『若き数学者のアメリカ』の方に打ちのめされてしまった。作者がアメリカでの生活で軌道に乗って来たころについて書かれている8章、9章では大爆笑してしまう場面もあったのだが、最終章「アメリカ、そして私」を読んだ時、私は自分の涙をどうしてもこらえきれなかった。

私は90年代前半にイギリスの大学に留学した。でも、私の留学は失敗だった。学位は取れたけれど就職にはまったく役立たず、帰国後3年ぐらいは転職を繰り返した。もともと日本を離れたくて親をうまいこと口車に乗せて留学費用をださせた私はホームシックにかかることは全くなかったけれど、いざ留学してみると周りの留学生は奨学金を得ている優秀な人たちや、自分で留学費用をちゃんと稼いできた熱意と独立心に満ちた人たちが多く、自分がみじめだった。そのみじめさを隠すために、日本語訛り丸出しのつたない英語しか話せない学生をあからさまに軽蔑し、そこから得られる優越感と、ネイティブの英語を流暢に話すクラスメートやフラットメイトに囲まれては自信をなくし、そこから襲ってくる劣等感の間で精神的な均衡を保っていた。

この『若き数学者のアメリカ』を読んだ時、そんな若かりし頃の苦い思い出が全て熱い涙になって流れ落ちる感じがした。当たり前だけれど、エリートとして留学した藤原先生のような学生でも、英語が思うように上達せず日本人とばかりつきあってしまう学生でも、それぞれが、それぞれのやり方で、異文化という岩や石がごろごろとした慣れない土地で、なんとか自分の居場所を見つけようと必死だったのだ。

「楽しい留学生活」とか「夢のような海外生活」、もしくは「楽しい育児」といったような表現は、藤原先生がこのエッセイで書いている言葉を借りればまさに「蜃気楼」のようなものなのだと思う。そこに着いてみれば実際は砂漠で、自分で切り開いていかなくてはならないことがどうしてもある。それでも、そこに立ち止まっていたら死んでしまうから、また走り続けなければならない。

私の留学が終わろうとしていた夏は、アトランタ・オリンピックがあった。帰国間際になって日本に電話を入れたら、母がマラソンの有森裕子選手が銅メダルを取ったことを教えてくれた。「有森さんね、スゴいわね〜。私感動しちゃった。『自分で自分のことを誉めたい』って言ってたよ。あなたもね、自分のこと誉めてね。留学、よくがんばったね。」私のような親不孝娘のワガママを、いつもちゃんと受け入れてくれた人は結局母だけだったなと、今頃になって思い出した。

2012年2月17日金曜日

パリ・オペラ座界隈のスリ事件

イギリスに引っ越してしまい、だんだんフランスでの生活の記憶が薄れていく…。
忘れる前にどうしても書いておきたい出来事があった。パリで出会ったスリについて。

イギリス行きが決まった去年の11月、私は夫を子供に預けて1人パリで美術館にでも出かけて息抜きをしようとした。もうパリでの日々も残り少ないのだから、せめてもの思い出にとうきうき気分で出かけて行った日曜日、スリにあった。被害額300ユーロ。

場所は、オペラ座広場、ちょうどオペラ座がほぼ真っ正面に見えるBNP Paribas銀行内。普段から路面にある外のATMでお金をおろすのになんとなく不安を感じていたので、わざわざ店舗内に併設されたATMを選んでお金をおろしに行った。財布の中には10ユーロ紙幣1枚しかなかったので、気分的にせめてあと20ユーロぐらいあったほうがいいかなぁと思っていた。いつものようにカードをATMに入れて、暗証番号を押し、20ユーロの指定ボタンを押したぐらいのときに…。

背後からか細い女性の声で「エクスキューズ・ミ〜」と聞こえた。振り向こうと思った瞬間、その女性が私の後ろから手を伸ばし、ATMの操作画面で300ユーロを指定している!!

私はとっさにキャーッと大声を出し、後ろを振り向くと東欧系の若い女性3人が、私の叫び声に驚いた様子で「ウィ〜・ドゥ〜・ナッシ〜ング(私たち、なーんにもしてないわよ〜)」ととぼけながら、私を取り囲んでいた。私はATMから吐き出された自分のカードだけを抜き取って、その場を大急ぎで立ち去った。落ち着いて待っていれば、カードを抜き取ったあとに300ユーロ紙幣が出てきて、それを懐に納めて逃げればよかったのだろうけど、そんな余裕は一切なし。おそらくその後何事もなかったように機械が吐き出した300ユーロを彼女たちはしめしめと手にしたことであろう。

日曜日の真っ昼間の出来事だった。銀行店内のATMだから安心だなんてとんでもない。日曜日だから店内にもガードマンもいないし、業務窓口は閉まっているから、まるで魚が網にかかるみたいに、格好の餌食となってしまった私。この日から三日は放心状態だった。結局警察に被害届を出して、それを保険会社に渡したら300ユーロは還ってきたけれど、その日はパリの思い出づくりに出かけたのが、とんでもない結果になってしまったことのショックが大きかった。よっぽど自分はパリに縁がない運命なんだなーと。

もう一つショックだったのは、やはりスリ3人組のこと。10代後半ぐらいの女の子たちで、そのみすぼらしい身なりから東欧から流れてきたジプシー系の子たちだと思われる(3人とも似ていたので、おそらく3姉妹)。彼女たちはすでにプロのスリという感じがした。おそらく私が暗証番号を押し終わったと思われるタイミングで店舗内にはいり、さっと画面を操作する。きちんと獲物の行動を観察して犯行に及んでいるのは明らかだった。

彼女たちの表情の中には、切羽詰まった生活の苦しみや、生きるために法を犯さざるをえないといった羞恥心のようなものは一切なかった。私が叫び声をあげている間にかいま見た彼女たちの表情には「失敗してもまたやればいいのよ」といったケロリとした感じが読み取れた。何かドラマで見る不良少女のように、もし彼女たちが少しでも「ふん、仕方ないじゃない、生きるためなんだから」と言った反社会的な恨みにようなものを顔にちらつかせながら犯行に及んでいるなら私もまだ納得できたのかもしれない。そうではなくて、彼女たちがまるで真っ当に働いている人たちと変わらない表情でいられることが私には不思議で、また恐ろしかった。

警察に行って「3人組に…」と言ったら、警官が「もしかして、この子たち?」と入り口に座っている3人の中学生ぐらいの男の子たちを指差した。違います、と言ったら、今3人組のスリは珍しくないからと説明された。ちなみに彼らは捕まってもすぐ釈放されるケースが多いので、パリからはスリは減らないようだ。

夫からは「今はカードがどこでも使えるんだから、10ユーロ現金があれば十分なのに…」と言われ、確かに私は東京暮らしの感覚がまだ抜け切れていなかったんだなーとも思った。

パリ観光に来る皆様。とにかくお気をつけあれ。

2012年2月12日日曜日

ラブリーでダーリンな英国

ブログのタイトルを変えようかと思いつつも、とりあえず英国に無事上陸し、やっと落ち着いてきたので、今の状況だけ書き残す。

当初、フランス人の夫と出会ったとき、夫は明らかに英国を毛嫌いしていた。マーマレードという苦いジャムを口にできるなんて、味覚が狂ったイギリス人にしか出来ないことだとか、天気予報でイギリスが雨雲に覆われているのを見ると軽く「ああ、またイギリスは雨。かわいそう〜!」とうれしそうに嗤ったり、ここまで異国の文化をバカにして日常生活の憂さ晴らしをしている夫を見て、普通に育った純日本人の私にはできない芸当だわ、と思っていた。

ところが、今はそれが手のひらを返したように180度変わった!
私もびっくり。夫自身もびっくり!!

さすがにジャムは甘いものだと洗脳されている部分は変わらないけれど、今の夫の大好物はスコーン。イギリスに来たら、おいしいフランスのバゲットを恋しがるかと思いきや、そのスコーンがあるから「別にフランスの食べ物も恋しいともあまり思わないなー」とさえ言う。

それは私も同じ意見だ。イギリスの食べ物は美味しくないという先入観が手助けしてくれているのかもしれないが、ケンブリッジの食事情は思ったほど悪くない。レストランとパブで食事をしたけど、まあまあおいしかった。しかも外食するとパリよりは少し安く済む。パリ郊外に移住したときと違って、期待値が最初から低いと、なんでもありがたく感じてしまうものなんだな、と改めて学んだ。

まあ、異国の物珍しさに心躍るのは最初の3ヶ月ぐらいで終わってしまう可能性が高いけれど、とりあえず私も夫も一ヶ月ケンブリッジで暮らしてみて、満足している。

夫は最初にケンブリッジを訪れたとき、ホッとした感覚があったという。街中は観光客でにぎやかな雰囲気があっても、決してパリのようにうるさくない、という。無駄にクラクションを鳴らしたりする車もないし、平穏な気持ちで街を歩けるそうだ。私も言われるとそうかなと思う。

また夫が面白がっているのが、イギリス英語。
引っ越した当初、水道や電気やらの手続きを電話ですることがあったのだけど、
「名前は?」と聞かれて「○○です。」というと、相手から必ず"Lovely"と返事がある。
次に「住所は?」と聞かれて答えると、また「ラブリー。」
次に「郵便番号は?」と聞かれて、また「ラブリー。」
ただ必要事項を答えただけなのに、何で水道局のおじさんから「ラブリー」って言われるんだ?と夫は小学生のように喜ぶ。確かに、英語を本と学校の授業で学んできた私と夫にとっては、「ラブリー!」と言われると、なんだか「きゃ、素敵!」とか、おかま言葉っぽく頭の中で変換してしまうのだ。

またあるとき夫が細い路地の街角で人とすれ違うときに、相手の女性に道を譲ったら、
「サンキュー、ダーリン」
と言われ、「あのおばさん、赤の他人に向かってダーリン??」
とまた大笑い。

確かにイギリス人は"Lovely"と”Darling"を大盤振る舞いで使う。その昔、夏目漱石がイギリスに留学した時代にも、イギリス人はこういう言葉を頻発していたのだろうか?堅物なイメージがある作家がイギリスの街を歩き、「ラブリー」とか、「ダーリン」と言われて、苦虫をつぶしたような顔をしているところを想像して、少し笑ってしまった。

2011年12月25日日曜日

パリ・オペラ座界隈

この2年間のフランス生活で一番お世話になった地区と言ったら、日本食レストランがひしめくパリ・オペラ座界隈だ。この周辺は在仏日本人の胃袋みたいなところ。でもうれしいことに行列を作っているのは日本人だけじゃなく、現地のパリッ子も半分以上を占める。うちは夫が日本食好きということもあって、ついパリまで出てくるとどうしても日本食レストランに足が向いてしまう。初めてここで日本食を食べたときは、「高い料金を払って、このお米の味は何?」と少々お米の質がっかりしたけれど、そのうちパリで食べられるお米の味に慣れてきた。海外で現地の味を再現するのに一番苦労するのは、水と原材料の質が物を言う主食の味なのかもしれない。夫も有名フランス料理店やパン屋が軒を連ねる東京でさえ、フランスの現地並みにおいしいパンやクロワッサンを見つけるのには苦労していたから。

<レストラン編>
善 (Zen) 
8, rue de l'Echelle 75000 Paris
子供連れに最適の日本食レストラン。店内が広いので、ベビーカーで入ってもスペースに余裕がある。おそらく、ここの店員さんは全員日本人のようで、日本式の無駄口を叩かずきびきびと事務的な接客が気持ちいい。子供連れだと分ると、言わなくても子供用の小さいフォークを出してくれたりと、気が利く店員さんもいる。日曜日にも開店していて、12時開店と同時に入れば、予約しなくても必ず席は確保できる。餃子がおいしい。

遊 (You)
11 Rue Sainte-Anne, 75001 Paris
少々お高い。でも美味しい。特に焼き魚系の定食が美味しいと思う。おにぎりがメニューにあって、息子にはおにぎりを注文できる。小柄な中年日本人男性のテキパキした接客も好き。

Aki 
11 Rue Sainte-Anne, 75001 Paris
値段的にお手頃感がある。やきそば、お好み焼きなど、ソースが決め手となるメニューが置いてある。息子にはいつもかやくご飯を注文していた。やきそばは日本人女性にはちょっとボリュームがある感じ。ここの難点はZenのように場所を広くとっていないこと。ここは客を詰め込むというか、客同士の間にあまりゆったりしたスペースがない。子供連れだと、早く食べて帰ろうという気になるレストラン。

Chez Miki
5 Rue Louvois, 75002 Paris
高いけど、おいしい。日本食の繊細な味が表現できているお店だと思う。でも量が少ない。フランス人の夫にはもっと物足りない感は強かったようだ。

<お弁当屋>
ACE GOURMET BENTO
18 Rue Thérèse, 75001 Paris
韓国系のお弁当屋さん。テイクアウトもできるし、その場で食べることもできる。
最初「お持ち帰りですか?それともここで食べますか? Vous emportez, ou mangez ici?  」という基本的なフランス語が韓国なまりでよく分らなくて、3回ぐらい聞き返してしまった。でも、ここの店員のお姉さんはこんな私でも愛嬌よく接してくれた。私はここに置いてあるジャガイモをスライスしたサラダが大好きで、よくお弁当を買いに行った。あるとき、「あ、また来てくれたんですね〜」なんて顔を覚えてくれて、ちょっとうれしかった。

十字屋
46 Rue Sainte-Anne, 75002 PARIS
日系のお弁当屋さん。別にまずくはないのだけど、一つ不満を言わせてもらえれば、韓国系のACE GOURMETのお弁当箱のほうが大きいのに、十字屋のお弁当のほうが少し割高なのはなぜ?あと、ここも店内で飲食できるけど、どうも落ち着ける雰囲気ではなく私はいつもお持ち帰りにしていた。でもここはお昼の時間帯はいつも大行列。好みの問題なんでしょうね。

Aki Boulangerie
16 Rue Sainte-Anne, 75001 
日系の菓子パン屋さん。食べたことはないけど、抹茶ケーキなども扱っていてカフェっぽい店内でお茶もできる。お弁当もある。ここには私が大好きな焼きそばパンがある!日本のコンビニで売っている焼きそばパンより2倍ぐらい大きくて、うれしい。

<その他>
ボヤージュ・ア・ラ・カルト Voyage a la carte 
‎48 Rue Sainte-Anne, 75002
日系の旅行代理店。パリ、フランス国内のツアー、格安航空券などを主に扱っている。それと、フィギュアスケートEric Bompard杯のチケットも毎年ここで扱っているようだ。私が見に行った2011年には、日本人向けにとっても良い席を大量に確保していて、普通に買うより安く購入できた。(一般販売66ユーロのS席が57ユーロになっていた。)2010年に浅田真央選手がEric Bompardに出場したときには、チケットの売れ行きもスゴかったそうだが、2011年に彼女が来なかったときの売れ行きはいまいちで、「日曜日のエキシビジョンもチケットが余るかもしれないので、半額近い値段で販売しますので、よかったらどうぞ。」と言われた。ちなみに2012年3月にニースで開催される世界選手権のチケットも扱ってますね〜。私は行けないけど…(涙)。