週2回、だいたいフランスの街のどこでもマルシェ(市場)が開かれる。
前住んでいたパリ郊外の街では週3回だった。そのときの習慣からか、わが家では食料品購入はほとんどマルシェだ。スーパーで買うものと言ったら、トイレットペーパーなどの日用品、ヨーグルト、牛乳、パスタぐらい。そもそもフランスのスーパーというのは、日本のスーパーのように従業員が力を合わせて今旬の物をお安く売りまっせ、というような企業努力はほとんどない。なので、そういう商人魂が息づく場所と言ったら、マルシェしかないのだ。
パリのように観光客が多いマルシェでは、大きな通り沿いに軒を連ねるような形で店が立ち並ぶが、パリ郊外だと、マルシェ用に駐車場みたいな広い場所がもともとあって、そこに露店が立ち並ぶ。青果店の数が多く、フランス人がやっている場合とアルジェリア人かと思われるアラブ人系の人たちがやっているお店がある。
最初にマルシェで買い物するときに、どこに並んでどうやって品物を選べばいいのか戸惑った。お店がただ横に長いだけの店だったら、とりあえず列の最後尾も見分けがつくのだけど、四角くお店が囲ってあって、真ん中に行商人がいるというタイプだと、どこで商品を選び、どこから並んでいいのかも分らなかった。
フランス人経営の青果店の場合は、とりあえず並ぶ。基本的に自分で欲しいものは自分の手で取らずに、お店の人に取ってもらう。でも、お店の人が居る場所から欲しい商品が離れた場所にある場合は、自分の手で持っていっても良い。そして自分の順番が来たら、欲しい物を「○○を何個ください」とか「○○を何百グラムください」というような感じで注文する。何グラムか分らない場合は、手で「こんな感じ」と見せて、掴む量を伝えている人もいる。それで測ってもらって「あともう少し入れて」とか調整してもらうのだ。
一方、アラブ人経営のお店は、少し様子が違う。まず、列というのがなく、だいたい日本の特大バーゲン会場状態のように、頭をスカーフで巻いたアラブ系のおばちゃんたちが商品をあさる。手の届くところにビニール袋が用意してあって、欲しい物は自分で選んで取っていいのだ。ある程度選んだら、支払い。列がないのでどうやって自分の番を待つかというと、商品が入った袋をお店の人に向けて高くちらつかせ、「ほら、私終わったわよ」みたいな顔で待つだけ。私の場合は袋を掲げて、じっと静かに視線を送る。たいがいお店の人はすぐ気がついてくれる。支払う前に他に何か欲しいものがあれば、言うとお店の人が取ってくれる。アラブ人経営の店のほうがフランス人の店と比べると少し安い。あと小さいけれど質のいい大根を売っていたり、大量のフレッシュミントを売っていたりするので、たまに覗くと面白い買い物ができて楽しいのだ。
ちなみに夏のバカンス時期には、フランス人のお店は2週間ぐらい閉まるので、アラブ人のお店にお世話になることが多い。また、おつりは、サンチームの一桁の額になると曖昧な態度を取られることもある。だますつもりできちんと返さないというよりも、あまりそこまで気にしていないという感じのほうが強いと思う。一度私が端数の金額分の小銭が見つからなくてお財布の中を必死に探していたら、「じゃあ、小銭分だけまけてあげるよ」と言われたこともある。
さて、私がマルシェで必ず買うものがある。それはフランス産のしいたけ。パリ郊外の77県で採れるものらしく、肉厚でおいしいのだ!ちゃんと「Shii-také」と日本語のままマルシェに並んでいます^^/
2011年11月20日日曜日
2011年11月8日火曜日
フランスの療育
1ヶ月半検診のときに「パパ、ママ」も言えなかった息子は、フランスのPMI(日本の保健所みたいなところ)にいる小児科の先生(IMF専務理事のラガルド女史似の先生)に、「言葉が遅い!」と怪訝な顔をされた。しかもまだその頃息子は伝い歩きがやっとで、ちゃんと歩くこともできなかったため、先生は「この子おかしい。発達に問題あり。」と断言。
検診のときにいっしょに来てくれた夫は、この先生の態度にかなり不満で、セカンド・オピニオンを求めようと別の小児科の先生に会いにいった。予防接種のついでにセカンド・オピニオンを聞こうとしたのだけど、今度の先生(赤い蝶ネクタイをしたおじいちゃん先生)は注射に大泣きしたうちの子を早く追い払いたいように、「別に今歩かなくったって問題ないよ〜、言葉もそのうち話すよ〜」と一言で診断され終了。
いったい、どっちの先生を信頼したらいいのか。結局最初に会ったラガルド女史似の先生の厳しい言葉が強烈だったので、その先生に「発達が遅いというなら、どうすればいいの?発達を見てくれる先生を紹介してくれ」とお願いし、児童精神科の先生(pedopyschiatre)を紹介してもらった。日本だと一歳半検診でひっかかる子供は「療育センター」というところで、詳しい検査を受けたり、歩く練習をしたりすると聞いたので、児童精神科の先生って何?と思ったのだけど、これがこの国のシステムならしょうがない。先生に会うことになった。初回の面接のときに、その先生とペアでpsychomotoricianという日本で言う療育師さん(?)のような先生が毎週息子の動きを見て、その先生からの報告をうけて最終的に児童精神科の先生が診断します、と説明される。
じゃぁ、はりきってpsychomotoricianの先生とお会いしてみようということになり、会ってみたら、若くてかわいらしい女の先生だった。大きな黒い瞳に黒い髪、ボーイッシュな髪型が似合って、ananの表紙になってもおかしくないような妖精のような先生。この先生の部屋にはたくさんおもちゃや遊具があって、息子も行くと大喜び。しかもこの先生も一緒になって息子と遊んでくれるので、毎回セッションの時間は息子も楽しみにしている様子。でも…。日本の「療育センター」だと歩けない子がみんなで一緒にグループで遊んだりすると聞いていた私は、これでいいのか?と疑問符。基本的には毎回おもちゃや遊具を使って先生と息子は一対一で遊ぶ。(たまに私も遊びに合流)。まったく歩く練習とか、「ほら、ちょっと立って歩いてみようか〜」と先生が息子を促すことも全くない。
そこで、3度目の面接のときぐらいのときに、おそるおそる先生に聞いてみた。
すると先生は、
「心配しなくても大丈夫。絶対そのうち歩くから。今(当時うちの息子は1歳7ヶ月)ここで、無理に歩かせようとすると骨に負担が掛かったりするから、この子が歩く気になるまで待ちましょう。この子は外の世界と接するときの恐怖が普通の子に比べてちょっと強いみたいね。だから、こうやってハイハイしながら、テーブルの下をくぐったり、障害物を超えて行ったりすることで自分の体に自信がつくから。その練習を毎回してるのよ」
と言う。
確かに、毎回先生は椅子やトンネル、クッションとかで障害物をつくり、その間をうまく息子がすり抜けていけるような行動をうちの息子に促していた。ただ単に遊んでるわけじゃなかったんだなーとホッとしたけれど、2歳の誕生日を迎えても息子は自分で歩かなかった。
公園に息子を連れては行くものの「外の世界と接するときの恐怖」が少し強い息子は、ただ泣いているだけで終わった日もある。それでもめげずに公園に連れて行ったある日、ふと気がついたことがあった。あるときから必ず息子は遊具の下をハイハイでくぐるようにして遊ぶようになった。(当初私は外の地べたをハイハイさせることに非常に抵抗があったのだけど、psychomotoricianから汚いとか気にすることないですよと言われ、地べたハイハイをOKにした)
そんな日々が1、2週間ぐらい経った後、息子は自分の足で歩き出した。最初は私たち親が見ていないところで、トコトコトコっと歩き出し、「あ、あれ!歩いてる!」と私が叫ぶと、息子はデヘーっと恥ずかしそうに床にひれ伏す。私が「ほら、もう一回歩いてみせてよ〜!」と言っても息子はダハァ〜!と恥ずかしそうに叫び、床にゴロゴロ。で、夫と私が諦めてまた自分たちのことに取り掛かると、トコトコトコっと息子が歩いてきた…!
2歳1ヶ月で歩き出した息子を見たその日、私がうれし泣き状態だったのは言うまでもない。
検診のときにいっしょに来てくれた夫は、この先生の態度にかなり不満で、セカンド・オピニオンを求めようと別の小児科の先生に会いにいった。予防接種のついでにセカンド・オピニオンを聞こうとしたのだけど、今度の先生(赤い蝶ネクタイをしたおじいちゃん先生)は注射に大泣きしたうちの子を早く追い払いたいように、「別に今歩かなくったって問題ないよ〜、言葉もそのうち話すよ〜」と一言で診断され終了。
いったい、どっちの先生を信頼したらいいのか。結局最初に会ったラガルド女史似の先生の厳しい言葉が強烈だったので、その先生に「発達が遅いというなら、どうすればいいの?発達を見てくれる先生を紹介してくれ」とお願いし、児童精神科の先生(pedopyschiatre)を紹介してもらった。日本だと一歳半検診でひっかかる子供は「療育センター」というところで、詳しい検査を受けたり、歩く練習をしたりすると聞いたので、児童精神科の先生って何?と思ったのだけど、これがこの国のシステムならしょうがない。先生に会うことになった。初回の面接のときに、その先生とペアでpsychomotoricianという日本で言う療育師さん(?)のような先生が毎週息子の動きを見て、その先生からの報告をうけて最終的に児童精神科の先生が診断します、と説明される。
じゃぁ、はりきってpsychomotoricianの先生とお会いしてみようということになり、会ってみたら、若くてかわいらしい女の先生だった。大きな黒い瞳に黒い髪、ボーイッシュな髪型が似合って、ananの表紙になってもおかしくないような妖精のような先生。この先生の部屋にはたくさんおもちゃや遊具があって、息子も行くと大喜び。しかもこの先生も一緒になって息子と遊んでくれるので、毎回セッションの時間は息子も楽しみにしている様子。でも…。日本の「療育センター」だと歩けない子がみんなで一緒にグループで遊んだりすると聞いていた私は、これでいいのか?と疑問符。基本的には毎回おもちゃや遊具を使って先生と息子は一対一で遊ぶ。(たまに私も遊びに合流)。まったく歩く練習とか、「ほら、ちょっと立って歩いてみようか〜」と先生が息子を促すことも全くない。
そこで、3度目の面接のときぐらいのときに、おそるおそる先生に聞いてみた。
すると先生は、
「心配しなくても大丈夫。絶対そのうち歩くから。今(当時うちの息子は1歳7ヶ月)ここで、無理に歩かせようとすると骨に負担が掛かったりするから、この子が歩く気になるまで待ちましょう。この子は外の世界と接するときの恐怖が普通の子に比べてちょっと強いみたいね。だから、こうやってハイハイしながら、テーブルの下をくぐったり、障害物を超えて行ったりすることで自分の体に自信がつくから。その練習を毎回してるのよ」
と言う。
確かに、毎回先生は椅子やトンネル、クッションとかで障害物をつくり、その間をうまく息子がすり抜けていけるような行動をうちの息子に促していた。ただ単に遊んでるわけじゃなかったんだなーとホッとしたけれど、2歳の誕生日を迎えても息子は自分で歩かなかった。
公園に息子を連れては行くものの「外の世界と接するときの恐怖」が少し強い息子は、ただ泣いているだけで終わった日もある。それでもめげずに公園に連れて行ったある日、ふと気がついたことがあった。あるときから必ず息子は遊具の下をハイハイでくぐるようにして遊ぶようになった。(当初私は外の地べたをハイハイさせることに非常に抵抗があったのだけど、psychomotoricianから汚いとか気にすることないですよと言われ、地べたハイハイをOKにした)
そんな日々が1、2週間ぐらい経った後、息子は自分の足で歩き出した。最初は私たち親が見ていないところで、トコトコトコっと歩き出し、「あ、あれ!歩いてる!」と私が叫ぶと、息子はデヘーっと恥ずかしそうに床にひれ伏す。私が「ほら、もう一回歩いてみせてよ〜!」と言っても息子はダハァ〜!と恥ずかしそうに叫び、床にゴロゴロ。で、夫と私が諦めてまた自分たちのことに取り掛かると、トコトコトコっと息子が歩いてきた…!
2歳1ヶ月で歩き出した息子を見たその日、私がうれし泣き状態だったのは言うまでもない。
2011年10月31日月曜日
フランスの図書館
子供を連れてよく図書館に行く。日本みたいに子供をいつでも連れて行ける児童館というものがないので、つい図書館の利用頻度が高くなる。
私の住む街の図書館では、大人用と子供用と建物が別れていて、それがありがたい。とても小さな図書館だけど子供用の図書館なので、赤ちゃんや幼児がちょっと奇声をあげても、図書館のスタッフさんたちも寛大。ただ、うるさく騒ぐ小学生ぐらいの子がいると、彼らはちゃんと注意してくれる。この小さな図書館に常時5人ぐらいスタッフがいるというのは、フランスが「読書」ということに国として予算を充てているということなのだろうか?と思ったりした。(ただ、開館時間は日本に比べて週休3日で1日平均5時間と短い。)
しかも、ここの図書館のスタッフさんたちは子供好きなのだ。2歳になったうちの息子を見ては、「あ〜、大きくなったね〜」と声をかけてくれたり、暇なときには子供に本を読んでくれたり、歌を歌ってくれたりする。先日はある司書さんが、「とっても素敵な日本語の絵本もあるのよ」と言って、いそいそと特別閲覧用の奥の棚から絵本を出してくれた。それは、駒形克己という造本作家が製作した絵本で、子供に勝手にさわらせるのはもったいないぐらいの、「Blue to Blue」という美しい絵本だった。
魚のサケが川で産まれて、また産まれた川に帰ってくるまでの短いストーリーなのだけど、本を開いただけで、まるで自分がサケになったかのうような、不思議な感覚に包まれる。青という色彩を上手に使うだけでなく、サケという魚の視点から書かれた短いストーリーに、ついハッとする生命の不思議を実感できる。そんな絵本だった。
本を返すときに司書さんに「うちの子にはまだちょっと早いようだったけど、とっても素敵な絵本でした。」と言ったら、司書さんは「そうでしょ、でも大人が楽しめればそれでいいのよ。」と笑顔。子供好きで本好きな司書さんたち。今住んでいる街自体はあまり好きではない私だけど、この図書館に出会えたのは本当によかったと思う。
我が息子は、この絵本を読んであげているときにはあまり集中していないみたいに見えたけど、この絵本を見せた次の日ぐらいから、「あおっ!(青)」と言えるようになった。
私の住む街の図書館では、大人用と子供用と建物が別れていて、それがありがたい。とても小さな図書館だけど子供用の図書館なので、赤ちゃんや幼児がちょっと奇声をあげても、図書館のスタッフさんたちも寛大。ただ、うるさく騒ぐ小学生ぐらいの子がいると、彼らはちゃんと注意してくれる。この小さな図書館に常時5人ぐらいスタッフがいるというのは、フランスが「読書」ということに国として予算を充てているということなのだろうか?と思ったりした。(ただ、開館時間は日本に比べて週休3日で1日平均5時間と短い。)
しかも、ここの図書館のスタッフさんたちは子供好きなのだ。2歳になったうちの息子を見ては、「あ〜、大きくなったね〜」と声をかけてくれたり、暇なときには子供に本を読んでくれたり、歌を歌ってくれたりする。先日はある司書さんが、「とっても素敵な日本語の絵本もあるのよ」と言って、いそいそと特別閲覧用の奥の棚から絵本を出してくれた。それは、駒形克己という造本作家が製作した絵本で、子供に勝手にさわらせるのはもったいないぐらいの、「Blue to Blue」という美しい絵本だった。
魚のサケが川で産まれて、また産まれた川に帰ってくるまでの短いストーリーなのだけど、本を開いただけで、まるで自分がサケになったかのうような、不思議な感覚に包まれる。青という色彩を上手に使うだけでなく、サケという魚の視点から書かれた短いストーリーに、ついハッとする生命の不思議を実感できる。そんな絵本だった。
本を返すときに司書さんに「うちの子にはまだちょっと早いようだったけど、とっても素敵な絵本でした。」と言ったら、司書さんは「そうでしょ、でも大人が楽しめればそれでいいのよ。」と笑顔。子供好きで本好きな司書さんたち。今住んでいる街自体はあまり好きではない私だけど、この図書館に出会えたのは本当によかったと思う。
我が息子は、この絵本を読んであげているときにはあまり集中していないみたいに見えたけど、この絵本を見せた次の日ぐらいから、「あおっ!(青)」と言えるようになった。
2011年3月27日日曜日
インドネシアの少女
■白布に手形で日の丸…ジャカルタで日本激励
(読売新聞 - 03月27日 20:09)
2004年にインドネシアのスマトラ島で大津波があった時、私は女友達と現地で知り会った日本人の男性と3人でジャワ島をのんびり観光していた。スマトラ島の大惨事とは裏腹に、ジャワ島の観光名所ボロブドゥール寺院周辺は静かな自然と田園風景が広がっていた。
そこで、修学旅行のグループのような11歳〜13歳ぐらいの少年少女団体さんに出会った。彼らは日本人が珍しかったようで、私たち3人はまるでス ターのような待遇をうけた。握手して下さい。いっしょに写真を取って下さい。みんなちゃんと英語で話しかけてくる。その中にとても英語が上手なイスラム教 の白いベールを頭に付けた女の子がいて、大きな瞳を輝かせながら、「日本は最先端の技術を持っているから、大きな地震がきても建物が壊れないって本当ですか?」と質問してきた。よくこんなことを知っているなぁ、と感心しつつ、インドネシアが日本と同じ地震の国であることを初めて意識した。
今回の地震で世界中の人が日本を応援してくれていると知った時、この女の子を思い出した。好奇心旺盛な子で、この他にも「日本人の女性は30歳 になっても結婚しないって本当ですか?」とか「あの一緒にいる男性は、あなたの旦那さんじゃないんですか?」ときわどい質問を立て続けに直球で投げきて、 私は回答するのにかなり戸惑ったけど、そのおかげで良い思い出となった。
ホテルに帰ってから、スマトラ島で大地震があったことを知った。国際電話で両親に電話をしたら、「もうお前の死体を探しに行く覚悟を決めていたから、本当に無事でよかった」と珍しく父の感情のこもった声が聞こえてきた。
その後2006年にジャワ島中部でも大きな地震があり、3500人程の死者を出したと聞いた。あの女の子は元気だろうか?もしジャワ島の地震の被害から逃れて生きていたとしたら、今も彼女は日本人にエールを送ってくれているだろうか?
私は日本の最先端技術を支える技術者でもなく、人から賞賛を浴びるに値しないごく普通の人間なのだけど、彼女の純粋な日本への好奇心を目の当たりにしてから、 自分がその彼女の期待を裏切らない日本人として生きているかどうかを、少しだけ気にするようになったような気がする。
(読売新聞 - 03月27日 20:09)
2004年にインドネシアのスマトラ島で大津波があった時、私は女友達と現地で知り会った日本人の男性と3人でジャワ島をのんびり観光していた。スマトラ島の大惨事とは裏腹に、ジャワ島の観光名所ボロブドゥール寺院周辺は静かな自然と田園風景が広がっていた。
そこで、修学旅行のグループのような11歳〜13歳ぐらいの少年少女団体さんに出会った。彼らは日本人が珍しかったようで、私たち3人はまるでス ターのような待遇をうけた。握手して下さい。いっしょに写真を取って下さい。みんなちゃんと英語で話しかけてくる。その中にとても英語が上手なイスラム教 の白いベールを頭に付けた女の子がいて、大きな瞳を輝かせながら、「日本は最先端の技術を持っているから、大きな地震がきても建物が壊れないって本当ですか?」と質問してきた。よくこんなことを知っているなぁ、と感心しつつ、インドネシアが日本と同じ地震の国であることを初めて意識した。
今回の地震で世界中の人が日本を応援してくれていると知った時、この女の子を思い出した。好奇心旺盛な子で、この他にも「日本人の女性は30歳 になっても結婚しないって本当ですか?」とか「あの一緒にいる男性は、あなたの旦那さんじゃないんですか?」ときわどい質問を立て続けに直球で投げきて、 私は回答するのにかなり戸惑ったけど、そのおかげで良い思い出となった。
ホテルに帰ってから、スマトラ島で大地震があったことを知った。国際電話で両親に電話をしたら、「もうお前の死体を探しに行く覚悟を決めていたから、本当に無事でよかった」と珍しく父の感情のこもった声が聞こえてきた。
その後2006年にジャワ島中部でも大きな地震があり、3500人程の死者を出したと聞いた。あの女の子は元気だろうか?もしジャワ島の地震の被害から逃れて生きていたとしたら、今も彼女は日本人にエールを送ってくれているだろうか?
私は日本の最先端技術を支える技術者でもなく、人から賞賛を浴びるに値しないごく普通の人間なのだけど、彼女の純粋な日本への好奇心を目の当たりにしてから、 自分がその彼女の期待を裏切らない日本人として生きているかどうかを、少しだけ気にするようになったような気がする。
焼け野原、瓦礫の山
津波が残した瓦礫の山の映像をテレビで見て、最初に思い浮かんだのは昔見たことがある野田秀樹の戯曲『走れメルス』のラストシーンだった。
http://kankyakuseki.iza-yoi.net/WEBREVIEW/reviews/Hashire-Merusu.html
はっきり言って舞台の内容はほとんど覚えていなかったのだけど、なぜかこの舞台のクライマックスで名優古田新太が「瓦礫の中から掘り起こせ!裸一 貫から立て直すんだ!」と言ったような内容を叫んでいる光景が強烈な印象として残っていて、それが津波の爪痕を見た時に私の耳によみがえってきた。
『走れメルス』を書いた野田秀樹さんは今何を思っているのだろうとネットで探してみたら、今も精力的にがんばっているようでうれしくなった。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103210146.html
しかも、今公演中の『南へ』という作品も、今の日本の姿をズバリと風刺しているような感じがして、おもしろそう。
http://www.nodamap.com/productions/toSouth/
野田さんが『走れメルス』を書いた頃は、きっとあの舞台に再現された瓦礫の山は第二次大戦で日本が敗戦を迎え、日本中どこもかしこも焼け野原と なった風景が元になっていたはず。そう、これまでは、日本人にとって戦後の焼け野原の風景が、今の日本を作り上げてきた原点だった。
でも、これからは東北地方の瓦礫の山が日本人の心的風景の原型になるだろう。焼け野原も瓦礫の山も、いつもそこが日本人の原点。そこから新しい世界が始まる。
http://kankyakuseki.iza-yoi.net/WEBREVIEW/reviews/Hashire-Merusu.html
はっきり言って舞台の内容はほとんど覚えていなかったのだけど、なぜかこの舞台のクライマックスで名優古田新太が「瓦礫の中から掘り起こせ!裸一 貫から立て直すんだ!」と言ったような内容を叫んでいる光景が強烈な印象として残っていて、それが津波の爪痕を見た時に私の耳によみがえってきた。
『走れメルス』を書いた野田秀樹さんは今何を思っているのだろうとネットで探してみたら、今も精力的にがんばっているようでうれしくなった。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103210146.html
しかも、今公演中の『南へ』という作品も、今の日本の姿をズバリと風刺しているような感じがして、おもしろそう。
http://www.nodamap.com/productions/toSouth/
野田さんが『走れメルス』を書いた頃は、きっとあの舞台に再現された瓦礫の山は第二次大戦で日本が敗戦を迎え、日本中どこもかしこも焼け野原と なった風景が元になっていたはず。そう、これまでは、日本人にとって戦後の焼け野原の風景が、今の日本を作り上げてきた原点だった。
でも、これからは東北地方の瓦礫の山が日本人の心的風景の原型になるだろう。焼け野原も瓦礫の山も、いつもそこが日本人の原点。そこから新しい世界が始まる。
2011年3月13日日曜日
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